2014年03月02日

★ART REVIES★ Andy Warhol "Time, frame and those layers"

2014年2月1日より森美術館でアンディ・ウォホール展が開催されている。時期を合わせ、シアター・イメージフォーラムで映画回顧展が行われた。そちらで4作品を見たので、レビューしたい。

美術館でもいくつかのfilm作品が設置されていたが、まったくゆっくり見れる環境ではなく、ほとんどの客は「何が映っていたか」を知れば、充分満足して出て行ってしまうだろう(最近の美術館では珍しいぐらい見続けるのが困難な設置の仕方をしている。)実際、アンディ・ウォホールのfilmはタイトル以上でも以下でもない、ただその行為や出来事だけが延々流れ続ける、そういう類いの映像である。今回見た映像作品は、ウォホール初期の有名作、例えば「エンパイア」「キス」「イート」「スリープ」等は外したので、退屈な時間を消費しに行くつもりが、たいして退屈でなかった、というのが今回レビューを書く動機となった。

レビューを書く前に、アンディ・ウォホールの動画作品を何と言うべきかにつまづいた。実験映画、ただ映画、アート映画、映像、フィルム≒film、動画(何か変な感じ)・・・。一言で言うと、ノンフィクションに限りになく近い実験的なアート寄りのfilm映画というのが一番しっくりする。だが、あくまで私の推測であるが、彼はアートでも実験をでもなく、劇映画のフィールドで勝負しようとしていたと思う。ということで、film(実際にはfilmの価値観を超えているが)と呼ぶのが正しそうなので、このレビューでは以下filmで統一する。

私が見た作品の4つ(正確には5つ)は『ロンサム・カウボーイ』『フアニータ・カストロの生涯』『ブロウ・ジョブ+ヴィニール』『ヌード・レストラン』である。

初期有名作のような一発長撮りモノとしては『ブロウ・ジョブ』がこの中では当てはまる。美しい男の官能的な表情が固定カメラで映されている。16mmフィルムの何分かごとに訪れるフィルム切れも残らず使用し、フィルムの継ぎ目感やホワイトアウトするフィルムも捨てないのは、男の時間をできるだけ継続させて見せることにこだわっているからだ。鑑賞者は男の顔しかない映像を、退屈なほど長く感じる時間の中で、ラスト(あるいはクライマックス)がどの顔であるかのみに焦点を合わせるしかなくなる。言い換えると、一連の流れが編集されず、現実の時間のまま進行するため、一つの頂点を見るために見続けざるを得なく、そして見続けてみても、私たちは期待した瞬間を必ず見過ごすということだ。このfilmを見て衝撃だったのは私たちは期待する「瞬間」をその瞬間に捉えることが不可能だという事実である。ウォホールにおけるfilmの時間観念はこの事実に集約されている。

また、ウォホールの時間観念は、あるからくりを見せてくれる。鑑賞者は大きく変化しないfilmを見ながら、ハプニングを期待し続ける。その気が遠くなる程退屈で長い時間をかけて見る映画を途中で止めることは、そのハプニングが起こるかもしれないという期待という餌を諦めることだ。鑑賞者は目の前の餌をただ指をくわえて見続けるしかない。結果、飢えた私たちは黒くなった画面と同時にそもそも餌がなかったことに気づくのである。

ウォホールのfilmには固定カメラというもう一つ大きな特徴がある。通常、映画のカメラは人の流動する欲望に沿って動いてくれる。ウォホールのカメラは映している対象が移動してしまい、ずれてしまってもまったく修正しない。アンバラスで違和感のある状態のままキープしている。暴力的なまでに、カメラは人間の視線であることを拒否しているのだ。

『フアニータ・カストロの生涯』『ブロウ・ジョブ』『ヴィニール』はその固定カメラの傑作である。『フアニータ・カストロの生涯』はカストロファミリーとチェ・ゲバラが家族写真のように3列に配置され、ドラマを繰り広げる。もちろんウォホールは普通でない劇映画を試みていて、1.演出者が出演し、台詞を指示する、2.出演者はその指示に従い、即座に同じ台詞を言い、または行動する、3.カメラは出演者の正面に置かれているようだが、実際のこの映画で用いられたショットは斜め右からのショットである、よって、出演者の視線は、外れたままである、4.興奮した状況になると、英語がスペイン語に代わり、字幕も失われ、何を話しているかわからなくなる、5.出演者の性別は実際と異なる。

出演者はゆっくりとした大きな声で話すため、芝居がかっていて、演技力があるとは全く言えない。このような演技をさせるのは、観賞者に映画における演技がリアルさを追求するだけのものではなく、常に芝居を見ていることを認識させるための演出なのではないかと推測する。指示通りに動かされる出演者は演出者の指示に苛立ったり、フレームの外に行ってまた呼び戻されたりする。演出者の存在はメタ的に映画の権力構造を表現している。つじつまの合わない台詞や行動は劇映画上つながりがあるようで、全く互いにコミュニケートされておらず、かといってその断絶がカオスを作っているわけでもない微妙なバランスの作品である。アメリカとキューバの緊張関係や言語的変化(英語⇔スペイン語)、映画制作内部における構造、フレームの魔術、出演者の無力な様、それぞれが重層的に表現される映像ならではの多元的な楽しみ方ができるfilm作品である。

『ヴィニール』はアンソニー・バージェスが書いた『時計じかけのオレンジ』を元に作ったそうだ。映画の内容は、不良の主人公をSM風に矯正するシーンが延々と続くだけである。ここでも出演者は全員カメラのフレームの中に詰められている。斜め上にあるカメラは固定されたまま、一つの画面の中でいくつものシーンが同時進行している。『フアニータ』より、複雑に配置され、出演者に自由度があるため、好きな時に個々の出来事や細部を鑑賞者は選んで見ることができる。イーディ・セジウィックのように無遠慮に。

最後に『ロンサム・カウボーイ』と『ヌード・レストラン』だが、こちらは上で述べた時間観念や固定カメラとは全く違う手法なのだが、劇映画としてはとても興味深い作品である。とてもくだらないのに、学生映画みたいにならないこれまた形容しがたい不思議な映画である。ウォホールの映画は、ずば抜けた美男美女が主役であることが多いので、最悪、そのきらきらをウォホールが憧れたように見れてしまうのが、映画として成り立つ大きな要素なのかもしれない。この2つの映画の主役はヴィヴァとテイラー・ミードだろう。ヴィヴァのビッチぷりとテイラー・ミードのナルシスティックで滑稽な言動との対比が見物である。ナイス・オカマ、ナイス・ビッチ!
どちらの映画も撮影する側より出演者が勝るため、フレームは必ず見たい(見せたい)ものが中心となる。それは鑑賞者の欲望を満たすが、ウォホール特有の世界観が失われたように感じる。

ウォホールの初期filmは私たちの過ごす「時間」は基本的に全て退屈だとはっきり証言し、フレームの内と外の空間を使って世界の有限性を示し、鑑賞者の想像力をもコントロールしてしまう映像の強さを見せつけた。重層的な構造や観点をミニマルかつシャープに表現した類い稀な最高のアートである。
posted by jona at 21:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | ART REVIEW

2012年01月13日

★ART REVIES★ リヨン・ビエンナーレ 2011

1b_DSC02219.jpg


去年パリ滞在中の9月23日、フランス・リヨンで開催されたThe 11th Biennale de Lyonへ足を運んだ。

アイルランドのイースター蜂起について詠ったイエーツの詩、「イースター、1916」の有名な一文である
'A Terrible Beauty Is Born'を主題として掲げている。

今回のゲスト・キュレーターであるヴィクトリア・ノーソーンのステイトメントを要約すると、下記のようになるだろう。

...…イエーツの詩は、一見、大義のために命を捧げた知人を称賛しているかのようだが、深く読み解くと、
詩は肯定から疑問、最後には否定へと向かっている。
この詩の中で、恐ろしい美が生まれている、という一文に、明白な、
相反するものが共存している様が見受けられる。
この矛盾した構造が興味深い。美は常に恐れから始まるのか。あるいは、美は恐れとは異なるものなのか。

また、このビエンナーレでは、今日におけるアートの混乱した状況に対して取り組み、
アートとジャーナリズムを、アートとコミュニケーションを区別しようとしている。
アーティストは政策的課題を超え、政治に関して「何か」を制定することに興味はない。
今回の第11回リヨン・ビエンナーレは南米とリヨンで構想され、
アーティストは個人としてではなく地域の代表として選定されている......

行き詰まった現状のアートシーンから脱却するためには、
アートワークが様々なジャンルの道具と化しているため、
それらから「区別」することから始めようと主張している。
アート×他ジャンルという牧歌的な歩み寄りの時代は去った。
否定的な結果を予想し多少悲観しつつも、それでも今、アートで何を成すことができるか。
かろうじて存在する希望的観測と戯れながら問う行為を、
イエーツが感じた時代の変動につきまとうある種の不安感に重ねることができるのか、
その点で詩を引用したように思う。
上記の主題に基づいて、いったいどのような南米のアートがセレクションされているか興味深い。

第11回リヨン・ビエンナーレは4つの会場で行われた。私が実際訪れた順に、主な作品を紹介する。

1つ目「ブルキアン財団」街の中心、ベルクール広場に面した建物。

th_DSC02102.jpg

th_DSC02103.jpg

th_DSC02104.jpg

th_DSC02108.jpg


庭園にはリチャード・バックミンスター・フラーの作品。材料はこの庭に置かれていた資材から成る。
材質の異なる半球のオブジェは素材の持つ特性と真逆の印象を与える。
木のドームは頑丈さを表す反面、鉄のドームは弱々しい。
建物の中には建築設計図が並べられている。今日見られるドーム状の建物は彼が発明したそうだ。

th_DSC02106.jpg

th_DSC02105.jpg


ニコラス・パリス「Utopia en espera o Dagramas de un terriorio」は価値感が一新されていくプロセスを
身の回りのものを使って表現している。

th_DSC02114.jpg


L'Humanité by Fernando Bryce

th_DSC02116.jpg


Hang Katswa Madi2 (Even if I Bleed 2) by Kemang Wa Lehulere

th_DSC02117.jpg


Plan by Luciana Lamothe

th_DSC02124.jpg

th_DSC02128.jpg

th_DSC02133.jpg


「魔女」by シルド・メイレレス

th_DSC02135.jpg


10:51 by Jorge Macchi

18b_DSC02136.jpg


Series of drawings by Elly Strik

19b_DSC02143.jpg


Acoustic Drawings by Milan Grygar

b_DSC02120.jpg


b_DSC02121.jpg


Xenoglossia by The Center For Historical Reenactments

2つ目、リヨン現代美術館。
ほぼ9割方、アフリカやラテン・アメリカ出身の作家のアートワークで構成されている。
「黒」を基調にした作品が多かった。
各作品の印象が散在してしまう危険性を回避するためかのように、
キュレーターが色をひとまとめにしたかのようだ。
個々の作品の技術あるいは完成度の低さを隠すかのようでもある。
光を吸収する黒は、時に洗練した雰囲気にしたり、政治的背景を持つ個人の記憶等を
多少シリアスにするためであったりするが、
この展示においては黒が一概にダークな面を示す色ではなかった。
また、モノトーンが必ずしも視覚的強度を深めるわけでもなく、
アフリカやラテン・アメリカ社会が持っていた前時代的な暴力性を
あいまいな調子で作品に滞わせているだけであった。

展示室に繁殖している黒い糸の作品はシルド・メイレレスの「魔女」である。
この設置に関してその他のアーティストは了承したのだろうか。
黒い糸に満たされた空間で見る彫刻や絵画は作品の質いかんに関わらず、ずいぶん違って見えてしまう。
この糸がない方が栄える作品も中にはあったので残念である。
作家の主旨はクリアされているが。

「静かなサイレン」 by エドゥアルド・バスアルド from Sung Nam HAN on Vimeo.




b_DSC02158.jpg


Puxador[Pilares] by Laura Lima

b_DSC02157.jpg


Lucie's Fur: The Prelude by Tracey Rose

b_DSC02167.jpg


The Day Trip Project by Julien Discrit

b_DSC02183.jpg


b_DSC02185.jpg


Perikhorein Knót by Erick Beltrán

b_DSC02186.jpg


Le fil rouge de l'histoire... by Roberto Jacoby

3つ目はスゥクリエールという製糖工場跡で展示を見る。
エドゥアルド・バスアルドの「静かなサイレン」が完成度が高かった。
月のクレーターのような地面にどす黒い水がわきだして、池になるまで地面ギリギリまで水が満たされていく。
その後、元に戻るように水が引いて行く。それが延々と繰り返される。
この作品に心ひかれるのは、震災の映像を来る日も見続けていたからであろうか。

延々といえば、このパフォーマーも全裸でひたすらゴムをひっぱっていた。
1時間に5分の休憩以外は朝から晩までひたすらゴムをひっぱっているそうだ。
静止しているアートワークに混じって、装置なり、身体なり、動きを持ったものは目立つ。

映像は計10作品、プロジェクションされていた。
近年アートに関するどのイベントにおいても、映像作品はじっくり見られる傾向にある。
映像はワンコンセプトタイプが最も多く、日常空間に異質な象徴が画面を占領することで、
日常あるいは自然の場面が畸形化するといった類いが主流だ。

また、この展覧会以外でも流行となっているのだが、
世界の諸々の「こと」や「現象」を個人や小集団の観点からまとめ上げ、
ブレインストーミングのような単語と図の羅列によって説明しようとするアートワークが
適宜、配置されていた。

b_DSC02192.jpg


Gala Chicken and Gala Coop by Laura Lima

b_DSC02207.jpg

b_DSC02215.jpg


Marienbad by Jorge Macchi

b_DSC02208.jpg


最後「T.A.S.E 工場」について。
広大な廃墟のような工場にある作品は空間の大きさに比べ、少なめであった。
奥にある骨組みだけになってしまった建物も展示空間として使用されていたら、より面白いのにと思った。

ジョージ・マッチによる「マリエンバート」は典型的なブルジョワの庭園を廃墟の中に作った作品。
東側からと西側から見るのとでは、ずいぶん違っていた。

リヨン・ビエンナーレに行き、日本で紹介されないような作家たちを一同に見ることができて良かった。
タグ:ART REVIES
posted by jona at 02:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | ART REVIEW

2011年11月02日

★ART REVIES★ オーケストラ・プロジェクト2011《オーケストラの測鉛〜未来へのアナログ遺産〜》

オーケストラ・プロジェクト2011《オーケストラの測鉛〜未来へのアナログ遺産〜》に足を運んだ。測鉛という言葉も知らなければ、アナログ遺産という自虐的なタイトルも含め、好奇心がそそられる。4名の現代作曲家の新作を東京交響楽団が演奏する夕べである。

個々の作品の印象を述べるのではなく、私の久々のクラシック経験を述べようと思う。
初めの2作を1Fで聴き、後半2作を2Fから見た。1Fで聴いてるときは、音の重量感もさることながら、演奏がしばし止んだ時の残響と言う程強くない音の消え行く様子、空間を把握することはいわゆる脳内における音の留まれることを許されないゆるい停滞、音を聴いている、かろうじて聴けているその曖昧な無くなる「音」を聴く経験をじっくり吟味することができた。
2Fで見た2作品は視覚情報が多すぎて、どれだけ目を凝らしても余り有る状況であった。パリで第一級とされるオペラを見てもバレエを見ても「見えない」主人公であるにもかかわらず、あまりに主張のない主人公である楽団の舞台裏を、オペラシティのコンサートホールでは類い稀な位置で見れるということは、嬉しい発見であった。あの位置でクラシックが見れるなら、視覚的においても演劇や映画にも勝てるのではないだろうか、というほど、くる人にはくる座席なのである。(特にロランバルト的な執拗な視線を持てる者にとって。)1Fではせいぜいスーパーエリートバイオリン集団が見れるだけで後方の演奏者はほとんど見れない。いうならば、DJの前で踊るって感じで、え、さっきの音なんの音なの?と思っても検証できない。その音は演奏会に来られるような方は知ってて当然の音かもしれない。まあ、見ようが見まいが演奏を聴くという点ではどうでもいいとも言える。2Fに移ると、後方の方々のチャーミングというか、ちょいダレてる感じで、演奏上少なくともバッハとかにはない演奏をした後の苦笑いも含め、鑑賞者の想像を十二分に満足させるような演奏をしているのである。まるで演奏は演技であるかのように。クラシックの奏でる様子があまりに記号的な展開になっており、記号と対象の関係性の示唆にも富んでいる。今回、私はクラシック素人として、解読できない鑑賞者の目線を経験し、多大な感銘を受けた。80名近い人間の真剣な表情を心置きなく見れる機会を想像してほしい。音を聴かせる演奏会が視覚芸術へと転じる素晴らしい転移なのだ。
posted by jona at 01:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | ART REVIEW

2010年02月23日

★ART REVIEW★吉原治良賞記念アート・プロジェクト2009mini by Karin Pisaricova

勤務先のランチタイムに、大阪府立現代美術センターへと足を運ぶ。

公募展『吉原治良賞記念アート・プロジェクト2009 mini』で選ばれた、チェコ出身の作家“カリン・ピサリコヴァ”氏が個展をしていた。

「大阪の町と人」をテーマに「過程は最高の結果と同じくらい重要」という趣旨で賞を勝ち取ったそうだ。

本日が初日であった。
たまたま作家本人もいたので、見終わったらいろいろ聞いてみようと思ったが、どこかに行ってしまった。

個展のモチーフをくらげとし、日本留学中の不安定な自身と重ね合わせ、日常のビニール傘を球状に作ったオブジェや人毛で作られたくらげの形のかまくらのようなもの、天井から地上に映し出される映像、海辺の写真で構成されている。

人毛の集積はクラクフ近くのアウシュビッツを思い起こさせる。
アウシュビッツで最もショックを受けたのは、人毛であった。
ガラス越しに、人毛が堆く積まれていた。
ナチスが牛の皮のように人体の一部を商品とするために、集めていたのだった。
あれを見ると、ナチスは人を家畜としていかに利用するか真剣に考えていたのがわかる。五感でわかってしまう。
無名の集合を避けるためか、ユダヤ人収容所であった場は、死亡または殺された人のモノクロの写真が壁に並べられていて、「その他多数」をあたかも拒否をしているかのようであった。
歴史は個人の集合であり、偉人でない限り、個人は歴史とならない。
カリン・ピサリコヴァはそれらの象徴を意識しているのだろうか。
彼女は思わせぶりに、人の毛を(おそらく)チェコの地図の上にくらげの触手として配置していた。天井から投影される足下の地図は不鮮明で、作家が地区を特定しているのであれば、完全な失敗である。不明瞭な領域をそのままにしておくことは、彼女の他の作品も曖昧にしてしまう。「ミシュラン風の地図が写っている」という、その状況のみが重要であれば、中途半端な耽美主義である。手を抜く事と、力が抜けている事の大きな違いを発見するいい機会であった。

受付にあった、彼女のポートレートを見ると、
Nationality:Czech Republic
とあった。
今回の展覧会での日本語の紹介文では
チェコ出身
とあった。

似て非なる表現。
アウシュビッツで頭がいっぱいの私はどうしても国が気になった。
ポートレートに「国籍」を書くのは当たり前なのであろうか。
不思議な習慣である。

容姿が整った作家、それが特に女性のアーティストであればマヤ・デレンを目指してほしい。
正装した紳士が長テーブルで食事をしている中で、マヤ・デレンはテーブルを四つん這いで画面に向かってくる。
マヤ・デレンと談笑している紳士同士、互いの存在は気に留めない。
このシーンのマヤ・デレンは観賞者に押さえがたい感情を抱かせる。
映像が形而上的な人間の美である様を記録しているからだ。

photos by Sung Nam HAN
authorization to photos from Osaka Contemporary Art Center Reception

Karin2.jpg

Karin1.jpg
posted by jona at 16:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | ART REVIEW