2011年11月02日

★ART REVIES★ オーケストラ・プロジェクト2011《オーケストラの測鉛〜未来へのアナログ遺産〜》

オーケストラ・プロジェクト2011《オーケストラの測鉛〜未来へのアナログ遺産〜》に足を運んだ。測鉛という言葉も知らなければ、アナログ遺産という自虐的なタイトルも含め、好奇心がそそられる。4名の現代作曲家の新作を東京交響楽団が演奏する夕べである。

個々の作品の印象を述べるのではなく、私の久々のクラシック経験を述べようと思う。
初めの2作を1Fで聴き、後半2作を2Fから見た。1Fで聴いてるときは、音の重量感もさることながら、演奏がしばし止んだ時の残響と言う程強くない音の消え行く様子、空間を把握することはいわゆる脳内における音の留まれることを許されないゆるい停滞、音を聴いている、かろうじて聴けているその曖昧な無くなる「音」を聴く経験をじっくり吟味することができた。
2Fで見た2作品は視覚情報が多すぎて、どれだけ目を凝らしても余り有る状況であった。パリで第一級とされるオペラを見てもバレエを見ても「見えない」主人公であるにもかかわらず、あまりに主張のない主人公である楽団の舞台裏を、オペラシティのコンサートホールでは類い稀な位置で見れるということは、嬉しい発見であった。あの位置でクラシックが見れるなら、視覚的においても演劇や映画にも勝てるのではないだろうか、というほど、くる人にはくる座席なのである。(特にロランバルト的な執拗な視線を持てる者にとって。)1Fではせいぜいスーパーエリートバイオリン集団が見れるだけで後方の演奏者はほとんど見れない。いうならば、DJの前で踊るって感じで、え、さっきの音なんの音なの?と思っても検証できない。その音は演奏会に来られるような方は知ってて当然の音かもしれない。まあ、見ようが見まいが演奏を聴くという点ではどうでもいいとも言える。2Fに移ると、後方の方々のチャーミングというか、ちょいダレてる感じで、演奏上少なくともバッハとかにはない演奏をした後の苦笑いも含め、鑑賞者の想像を十二分に満足させるような演奏をしているのである。まるで演奏は演技であるかのように。クラシックの奏でる様子があまりに記号的な展開になっており、記号と対象の関係性の示唆にも富んでいる。今回、私はクラシック素人として、解読できない鑑賞者の目線を経験し、多大な感銘を受けた。80名近い人間の真剣な表情を心置きなく見れる機会を想像してほしい。音を聴かせる演奏会が視覚芸術へと転じる素晴らしい転移なのだ。
posted by jona at 01:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | ART REVIEW
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