2014年07月17日

★Sung Nam HAN artist's NEWS★ Blue Fog:Bar Drama vol.3

韓成南演出“Blue Fog:Bar Drama vol.3”を全3回公演で、2014年7月12日(土)、13日(日)、14日(月)に開催した。
vol.1やvol.2と同様にバーのある場所で観客と同じ目線で行われる、映像 x 演劇 x LED 照明 x ダンスをSuper Linear Showという概念/システムを元にして創作したアートパフォーマンスである。

言語行為部分の内容の過激さから、賛否両論のあった作品となり、ある方の感想をきっかけに鉄が熱いうちに打っておくことにした。
ご覧になっていない方にとっては、なんのことか全くわからないかと思うが、制作側からの意図をただ述べたいという点から、パフォーマンス内容の説明を省くことにし、以下、ご覧になった方向けに書くことにする。

■韓の狙い
1.一般の方、文化教養のある人、アヴァンギャルド手法に慣れている人まで幅広く対応できるパフォーマンス
2.私が今見て、純粋に最も面白いと思うパフォーマンスか否か
3.想像力の喚起、没頭への拒否、過度の形式性
4.身体性に絶対に勝つ映像(ダンス、演劇に対して根幹を揺るがす挑戦)
5.観客が選択しないことには不自由であり続ける空間、または、選択しても不自由であり続けるシステム

1において、映像の1つにポロックの絵を使用した。かなり安易なことは認識しつつも、ポロックを知らないという方レベルへの落とし込みや、劇中に引用した小説にポロックが言及されているため、ポロックの絵を映像に使うことに至った。
イヴ・クラインやクリス・バーデンの映像も出していて、とても緩く、倫理的悪はアートでは歓迎される、というテーマ(ならばアートであれば人を殺してもいいのかまで今後発展したい)、それは、目立って、新しくて、伝説的でなんぼ、というアートの本質的な部分、それを「見たい」とどこかで欲求する安全帯から観賞する側の、ある種下衆な欲望や好奇心との相互関係をいくつかの例をあげて、パフォーマンスに挿入している。
このパフォーマンスは、観客の教養レベルによって面白みが変わるように作られている。(ネタばれすると、ジョイス、サド、ウィトゲンシュタイン、ミシェル・ウェルベック、聖書やテレサ・ハッキョン・チャ引用など)

2は私にとってのエンターテイメント。新しさ。既存の一元的なフォーマットからの脱却の様を見たいという欲望。

3は言い換えると、
・想像力の喚起=想像させる余白の重要性
・没頭への拒否=共感への裏切り、踏み込めないもどかしさ、常に考えざるを得ない展開
・過度の形式性=形式を見せるということ。コンテンツの中身は強度を補完するものでしかない。(猟奇的殺人の告白の内容はほぼ重要でない)第一幕:俳句、第二幕:サッカー、第三幕:告白、これらを使って、言語ゲームと形式による形式を表現した。

4はお客さんの感想として、
・加工された映像の方がこのパフォーマンスの肝が見えるのではないか、という期待により映像をつい見続けてしまう。
・周りで起こっている演者やダンサーを個々に選択して観賞するより、スイッチングによる映像の方が全体を把握できるという観客の怠惰にも似て、結果映像を見続ける選択に至る。(映像と見る側の関係性を露呈する面白い結果となっている。)
・犯罪者の告白で、内容に対してむかつくと同時に少し理解してしまう自分もいた。

5はほぼそのままである。
観客のリテラシーによって、その場にいつづける人、立ち上がる人がいる。

■コンテンツ内容の選択(トークの時に話したことと、話そうとしたこと for 一般の方向け)
私は男性に対して強い愛情と激しい憎悪を持っている。
今回男性3人の出演するドラマに、女性目線で「愛と糾弾」という部分を反映させた。
男性社会に対するフェミニスト的な反発ではなく、その不思議な感情に重きを置いている。
男性と女性の生き方が違うー当然生物が違うので違うのだがー日本語を話している同じ人間なのに、共感していた瞬間一気にどこかで理解できなくなる瞬間がある、その当たり前な部分が私には非常にズレとして、昔から気になるところだった。そこは私たちが男性、女性だけではなく、他人と接する際、私たち人間が、人格を思い込みの想定でしかコミュニケーションが取れないということが、快楽殺人という犯罪の大部分を占める金銭目的ではない、ただひたすら一つの欲望のためだけに生きている、あるいは「欲望を処理しなければ彼らは生きて行けないという存在」、と接することと変わらない。

快楽殺人は99%男性である。女性も0ではないと思うが、例えば、独我論的に世界の中に自分がいるのではなく、自分のスタートから終わりが全世界であるという観点で生きる彼らを、私たちは社会から抹消すべきなのか、死刑にすべきなのか、「理解できない」その理由だけで、そういう行為にしか帰結できないのか、という問題提起でもある。

告白を通して、鑑賞者側が理解しようという過程が行われるのか、あるいは拒否するのか。それはすなわち彼らを抹殺するという、心の道徳的な問題に即座に突入する。

そういった狙いで、快楽殺人を使った。

人を殺してはならないという問いに対して私たちがどこまで正確に答えられるのか。現代社会では、「刑務所か死刑になってもいいのであれば」最終的には殺してもいいということになっている。
私たちが人と関わり合って生きていくには、きっとこの人は大方私の倫理観と同じであると信じながら、生きて行くしかない。犬猫を無意味に殺さないとか、そういうことを勝手に信じて話しているということ、赤色と言えばだいたい同じ色を想像し、それを指し示すこともでき、痛さも同じような場所に傷を作れば同じぐらい痛いであろうという部分を「なぜか」信じている。

ゲーム性というのは、規則を設け運用することであり、資本主義の金銭システム、スポーツや俳句の575といった形で私たちの社会に無数に存在する。しかし、そのゲームの規則を問われることなく、比較的無頓着に受け止めていることが、非常に興味深い。その点で、犯罪が、その規則性を踏みにじること、あるいはタブーを犯すという行為に少し近いと感じるのだ。

■Blue Fog:Bar Drama vol.3における映像表現について

仮に映像だけを見ていたら、テレビ放映初期のような生放送でドラマを撮っている状況を見ているような体験となる。(カメラのスイッチング等で操作する等)よく深夜とかでやっているような演劇を1カメで記録映像として撮るのではなく、視野外で起こるリアルと映像のギャップ、差異を体験することがこのアート・パフォーマンスに参加(観賞)する肝だと思う。Super Linear Showという概念は、リアルタイムで映像内に観客が取り込まれることと(撮影現場にいるかつ生放送の映像とリアルの展開が同時に起こる)、リニアの時間そのまま流れる時間をカットせずに編集はスイッチングだけというシングルチャンネル(1本化した1画面の映像)を見るという2段階がある。Super Linear Showは、映像芸術という側面と演劇という側面を相互に強く結びつけることで、世界の中の個人単位としての私たちの視野、視線という映像のフレームを用いて生きていることを感じさせる構造そのものであり、かつ、それをよりダイナミックに表現している。
一見、情報過多の空間であるが、全てのパーツが非常に形式的に作られているからこそ、これらが終始、形式へと集約し、ベケットのテレビのための作品、クワッド、夜と夢、幽霊トリオの構造を現代アートとしてより発展させたものとも言える。
このアートパフォーマンスは、青の空間で埋め尽くされている。Blue Backとは、Videoの具体的な意味のあるイメージを、モンタージュではなく、同時に即時的に見せるVideoの一つの技法だ。私はその具体的なイメージの羅列にこそ飛躍や破壊、現実を変容するという点で、アートの可能性を感じており、今後より効果的に挑戦して行く所存である。

Blue Fog:Bar Drama vol.3_OT

Blue Fog:Bar Drama vol.3_UR

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posted by jona at 02:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | Sung Nam HAN artist's NEWS