2014年2月1日より森美術館でアンディ・ウォホール展が開催されている。時期を合わせ、シアター・イメージフォーラムで映画回顧展が行われた。そちらで4作品を見たので、レビューしたい。
美術館でもいくつかのfilm作品が設置されていたが、まったくゆっくり見れる環境ではなく、ほとんどの客は「何が映っていたか」を知れば、充分満足して出て行ってしまうだろう(最近の美術館では珍しいぐらい見続けるのが困難な設置の仕方をしている。)実際、アンディ・ウォホールのfilmはタイトル以上でも以下でもない、ただその行為や出来事だけが延々流れ続ける、そういう類いの映像である。今回見た映像作品は、ウォホール初期の有名作、例えば「エンパイア」「キス」「イート」「スリープ」等は外したので、退屈な時間を消費しに行くつもりが、たいして退屈でなかった、というのが今回レビューを書く動機となった。
レビューを書く前に、アンディ・ウォホールの動画作品を何と言うべきかにつまづいた。実験映画、ただ映画、アート映画、映像、フィルム≒film、動画(何か変な感じ)・・・。一言で言うと、ノンフィクションに限りになく近い実験的なアート寄りのfilm映画というのが一番しっくりする。だが、あくまで私の推測であるが、彼はアートでも実験をでもなく、劇映画のフィールドで勝負しようとしていたと思う。ということで、film(実際にはfilmの価値観を超えているが)と呼ぶのが正しそうなので、このレビューでは以下filmで統一する。
私が見た作品の4つ(正確には5つ)は『ロンサム・カウボーイ』『フアニータ・カストロの生涯』『ブロウ・ジョブ+ヴィニール』『ヌード・レストラン』である。
初期有名作のような一発長撮りモノとしては『ブロウ・ジョブ』がこの中では当てはまる。美しい男の官能的な表情が固定カメラで映されている。16mmフィルムの何分かごとに訪れるフィルム切れも残らず使用し、フィルムの継ぎ目感やホワイトアウトするフィルムも捨てないのは、男の時間をできるだけ継続させて見せることにこだわっているからだ。鑑賞者は男の顔しかない映像を、退屈なほど長く感じる時間の中で、ラスト(あるいはクライマックス)がどの顔であるかのみに焦点を合わせるしかなくなる。言い換えると、一連の流れが編集されず、現実の時間のまま進行するため、一つの頂点を見るために見続けざるを得なく、そして見続けてみても、私たちは期待した瞬間を必ず見過ごすということだ。このfilmを見て衝撃だったのは私たちは期待する「瞬間」をその瞬間に捉えることが不可能だという事実である。ウォホールにおけるfilmの時間観念はこの事実に集約されている。
また、ウォホールの時間観念は、あるからくりを見せてくれる。鑑賞者は大きく変化しないfilmを見ながら、ハプニングを期待し続ける。その気が遠くなる程退屈で長い時間をかけて見る映画を途中で止めることは、そのハプニングが起こるかもしれないという期待という餌を諦めることだ。鑑賞者は目の前の餌をただ指をくわえて見続けるしかない。結果、飢えた私たちは黒くなった画面と同時にそもそも餌がなかったことに気づくのである。
ウォホールのfilmには固定カメラというもう一つ大きな特徴がある。通常、映画のカメラは人の流動する欲望に沿って動いてくれる。ウォホールのカメラは映している対象が移動してしまい、ずれてしまってもまったく修正しない。アンバラスで違和感のある状態のままキープしている。暴力的なまでに、カメラは人間の視線であることを拒否しているのだ。
『フアニータ・カストロの生涯』『ブロウ・ジョブ』『ヴィニール』はその固定カメラの傑作である。『フアニータ・カストロの生涯』はカストロファミリーとチェ・ゲバラが家族写真のように3列に配置され、ドラマを繰り広げる。もちろんウォホールは普通でない劇映画を試みていて、1.演出者が出演し、台詞を指示する、2.出演者はその指示に従い、即座に同じ台詞を言い、または行動する、3.カメラは出演者の正面に置かれているようだが、実際のこの映画で用いられたショットは斜め右からのショットである、よって、出演者の視線は、外れたままである、4.興奮した状況になると、英語がスペイン語に代わり、字幕も失われ、何を話しているかわからなくなる、5.出演者の性別は実際と異なる。
出演者はゆっくりとした大きな声で話すため、芝居がかっていて、演技力があるとは全く言えない。このような演技をさせるのは、観賞者に映画における演技がリアルさを追求するだけのものではなく、常に芝居を見ていることを認識させるための演出なのではないかと推測する。指示通りに動かされる出演者は演出者の指示に苛立ったり、フレームの外に行ってまた呼び戻されたりする。演出者の存在はメタ的に映画の権力構造を表現している。つじつまの合わない台詞や行動は劇映画上つながりがあるようで、全く互いにコミュニケートされておらず、かといってその断絶がカオスを作っているわけでもない微妙なバランスの作品である。アメリカとキューバの緊張関係や言語的変化(英語⇔スペイン語)、映画制作内部における構造、フレームの魔術、出演者の無力な様、それぞれが重層的に表現される映像ならではの多元的な楽しみ方ができるfilm作品である。
『ヴィニール』はアンソニー・バージェスが書いた『時計じかけのオレンジ』を元に作ったそうだ。映画の内容は、不良の主人公をSM風に矯正するシーンが延々と続くだけである。ここでも出演者は全員カメラのフレームの中に詰められている。斜め上にあるカメラは固定されたまま、一つの画面の中でいくつものシーンが同時進行している。『フアニータ』より、複雑に配置され、出演者に自由度があるため、好きな時に個々の出来事や細部を鑑賞者は選んで見ることができる。イーディ・セジウィックのように無遠慮に。
最後に『ロンサム・カウボーイ』と『ヌード・レストラン』だが、こちらは上で述べた時間観念や固定カメラとは全く違う手法なのだが、劇映画としてはとても興味深い作品である。とてもくだらないのに、学生映画みたいにならないこれまた形容しがたい不思議な映画である。ウォホールの映画は、ずば抜けた美男美女が主役であることが多いので、最悪、そのきらきらをウォホールが憧れたように見れてしまうのが、映画として成り立つ大きな要素なのかもしれない。この2つの映画の主役はヴィヴァとテイラー・ミードだろう。ヴィヴァのビッチぷりとテイラー・ミードのナルシスティックで滑稽な言動との対比が見物である。ナイス・オカマ、ナイス・ビッチ!
どちらの映画も撮影する側より出演者が勝るため、フレームは必ず見たい(見せたい)ものが中心となる。それは鑑賞者の欲望を満たすが、ウォホール特有の世界観が失われたように感じる。
ウォホールの初期filmは私たちの過ごす「時間」は基本的に全て退屈だとはっきり証言し、フレームの内と外の空間を使って世界の有限性を示し、鑑賞者の想像力をもコントロールしてしまう映像の強さを見せつけた。重層的な構造や観点をミニマルかつシャープに表現した類い稀な最高のアートである。