金曜、友人と大バコ「ageHa」に行くことになった。
当日、別の友人達の飲み会に行っていたら、新木場までの終電に間に合わず、
渋谷から直通アゲハ行き無料バスに乗る。
バスの中で接近した東京タワーを見つつ、ラジオのテクノに耳を傾ける。
観光バスとテクノの不思議な出会い。
JUNO REACTORがメイン。
ちょうど彼らが始まるタイミングで3階踊り場の手すり前に収まる。
友達とは会えず一人小踊り。
結論、私の趣味ではないけど、なんとなく「今」っぽい音楽な印象。
VJの映像はゴス。
音楽はヴィジュアル系×テクノ×民族音楽(フロム日本、ジャマイカ、インド)
インド女性歌手のわななき×ラスタなMC×生ギターとドラムがライブを彩る。
最後には和太鼓を並べ、演奏者が参加。
会場は超満員で、大盛況。拍手喝采、万々歳。
楽しむ人々を横目に、様々な民族音楽を音源として使うことに疑問を持った。
民族の背景部分にこだわらず、エキゾチズムとして短絡的に使うことと、
歴史的背景を含めて、厳かに使うこと、両者はどれくらい隔たりがあるのか。
そもそも音楽について、その問いは必要なのだろうか。
MIXの精度が良ければ、マスの反応が良ければそれでいいのだろうか。
私はJUNO REACTORの音楽が没思想的に使用されているように感じる。
インド女性の手持ち無沙汰な動き方、MCの単純さ、和太鼓の音が激しい動きに反して小さいことや
ドラムの音と打ち込みの音の聞き漏れそうな絡み方等々、
随所に各パートに対する敬意のないライブであった。
それらがなんとなく今っぽい、という結論に至った理由である。
2012年01月23日
2012年01月13日
★ART REVIES★ リヨン・ビエンナーレ 2011
去年パリ滞在中の9月23日、フランス・リヨンで開催されたThe 11th Biennale de Lyonへ足を運んだ。
アイルランドのイースター蜂起について詠ったイエーツの詩、「イースター、1916」の有名な一文である
'A Terrible Beauty Is Born'を主題として掲げている。
今回のゲスト・キュレーターであるヴィクトリア・ノーソーンのステイトメントを要約すると、下記のようになるだろう。
...…イエーツの詩は、一見、大義のために命を捧げた知人を称賛しているかのようだが、深く読み解くと、
詩は肯定から疑問、最後には否定へと向かっている。
この詩の中で、恐ろしい美が生まれている、という一文に、明白な、
相反するものが共存している様が見受けられる。
この矛盾した構造が興味深い。美は常に恐れから始まるのか。あるいは、美は恐れとは異なるものなのか。
また、このビエンナーレでは、今日におけるアートの混乱した状況に対して取り組み、
アートとジャーナリズムを、アートとコミュニケーションを区別しようとしている。
アーティストは政策的課題を超え、政治に関して「何か」を制定することに興味はない。
今回の第11回リヨン・ビエンナーレは南米とリヨンで構想され、
アーティストは個人としてではなく地域の代表として選定されている......
行き詰まった現状のアートシーンから脱却するためには、
アートワークが様々なジャンルの道具と化しているため、
それらから「区別」することから始めようと主張している。
アート×他ジャンルという牧歌的な歩み寄りの時代は去った。
否定的な結果を予想し多少悲観しつつも、それでも今、アートで何を成すことができるか。
かろうじて存在する希望的観測と戯れながら問う行為を、
イエーツが感じた時代の変動につきまとうある種の不安感に重ねることができるのか、
その点で詩を引用したように思う。
上記の主題に基づいて、いったいどのような南米のアートがセレクションされているか興味深い。
第11回リヨン・ビエンナーレは4つの会場で行われた。私が実際訪れた順に、主な作品を紹介する。
1つ目「ブルキアン財団」街の中心、ベルクール広場に面した建物。
庭園にはリチャード・バックミンスター・フラーの作品。材料はこの庭に置かれていた資材から成る。
材質の異なる半球のオブジェは素材の持つ特性と真逆の印象を与える。
木のドームは頑丈さを表す反面、鉄のドームは弱々しい。
建物の中には建築設計図が並べられている。今日見られるドーム状の建物は彼が発明したそうだ。
ニコラス・パリス「Utopia en espera o Dagramas de un terriorio」は価値感が一新されていくプロセスを
身の回りのものを使って表現している。
L'Humanité by Fernando Bryce
Hang Katswa Madi2 (Even if I Bleed 2) by Kemang Wa Lehulere
Plan by Luciana Lamothe
「魔女」by シルド・メイレレス
10:51 by Jorge Macchi
Series of drawings by Elly Strik
Acoustic Drawings by Milan Grygar
Xenoglossia by The Center For Historical Reenactments
2つ目、リヨン現代美術館。
ほぼ9割方、アフリカやラテン・アメリカ出身の作家のアートワークで構成されている。
「黒」を基調にした作品が多かった。
各作品の印象が散在してしまう危険性を回避するためかのように、
キュレーターが色をひとまとめにしたかのようだ。
個々の作品の技術あるいは完成度の低さを隠すかのようでもある。
光を吸収する黒は、時に洗練した雰囲気にしたり、政治的背景を持つ個人の記憶等を
多少シリアスにするためであったりするが、
この展示においては黒が一概にダークな面を示す色ではなかった。
また、モノトーンが必ずしも視覚的強度を深めるわけでもなく、
アフリカやラテン・アメリカ社会が持っていた前時代的な暴力性を
あいまいな調子で作品に滞わせているだけであった。
展示室に繁殖している黒い糸の作品はシルド・メイレレスの「魔女」である。
この設置に関してその他のアーティストは了承したのだろうか。
黒い糸に満たされた空間で見る彫刻や絵画は作品の質いかんに関わらず、ずいぶん違って見えてしまう。
この糸がない方が栄える作品も中にはあったので残念である。
作家の主旨はクリアされているが。
「静かなサイレン」 by エドゥアルド・バスアルド from Sung Nam HAN on Vimeo.
Puxador[Pilares] by Laura Lima
Lucie's Fur: The Prelude by Tracey Rose
The Day Trip Project by Julien Discrit
Perikhorein Knót by Erick Beltrán
Le fil rouge de l'histoire... by Roberto Jacoby
3つ目はスゥクリエールという製糖工場跡で展示を見る。
エドゥアルド・バスアルドの「静かなサイレン」が完成度が高かった。
月のクレーターのような地面にどす黒い水がわきだして、池になるまで地面ギリギリまで水が満たされていく。
その後、元に戻るように水が引いて行く。それが延々と繰り返される。
この作品に心ひかれるのは、震災の映像を来る日も見続けていたからであろうか。
延々といえば、このパフォーマーも全裸でひたすらゴムをひっぱっていた。
1時間に5分の休憩以外は朝から晩までひたすらゴムをひっぱっているそうだ。
静止しているアートワークに混じって、装置なり、身体なり、動きを持ったものは目立つ。
映像は計10作品、プロジェクションされていた。
近年アートに関するどのイベントにおいても、映像作品はじっくり見られる傾向にある。
映像はワンコンセプトタイプが最も多く、日常空間に異質な象徴が画面を占領することで、
日常あるいは自然の場面が畸形化するといった類いが主流だ。
また、この展覧会以外でも流行となっているのだが、
世界の諸々の「こと」や「現象」を個人や小集団の観点からまとめ上げ、
ブレインストーミングのような単語と図の羅列によって説明しようとするアートワークが
適宜、配置されていた。
Gala Chicken and Gala Coop by Laura Lima
Marienbad by Jorge Macchi
最後「T.A.S.E 工場」について。
広大な廃墟のような工場にある作品は空間の大きさに比べ、少なめであった。
奥にある骨組みだけになってしまった建物も展示空間として使用されていたら、より面白いのにと思った。
ジョージ・マッチによる「マリエンバート」は典型的なブルジョワの庭園を廃墟の中に作った作品。
東側からと西側から見るのとでは、ずいぶん違っていた。
リヨン・ビエンナーレに行き、日本で紹介されないような作家たちを一同に見ることができて良かった。
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