2014年07月17日

★Sung Nam HAN artist's NEWS★ Blue Fog:Bar Drama vol.3

韓成南演出“Blue Fog:Bar Drama vol.3”を全3回公演で、2014年7月12日(土)、13日(日)、14日(月)に開催した。
vol.1やvol.2と同様にバーのある場所で観客と同じ目線で行われる、映像 x 演劇 x LED 照明 x ダンスをSuper Linear Showという概念/システムを元にして創作したアートパフォーマンスである。

言語行為部分の内容の過激さから、賛否両論のあった作品となり、ある方の感想をきっかけに鉄が熱いうちに打っておくことにした。
ご覧になっていない方にとっては、なんのことか全くわからないかと思うが、制作側からの意図をただ述べたいという点から、パフォーマンス内容の説明を省くことにし、以下、ご覧になった方向けに書くことにする。

■韓の狙い
1.一般の方、文化教養のある人、アヴァンギャルド手法に慣れている人まで幅広く対応できるパフォーマンス
2.私が今見て、純粋に最も面白いと思うパフォーマンスか否か
3.想像力の喚起、没頭への拒否、過度の形式性
4.身体性に絶対に勝つ映像(ダンス、演劇に対して根幹を揺るがす挑戦)
5.観客が選択しないことには不自由であり続ける空間、または、選択しても不自由であり続けるシステム

1において、映像の1つにポロックの絵を使用した。かなり安易なことは認識しつつも、ポロックを知らないという方レベルへの落とし込みや、劇中に引用した小説にポロックが言及されているため、ポロックの絵を映像に使うことに至った。
イヴ・クラインやクリス・バーデンの映像も出していて、とても緩く、倫理的悪はアートでは歓迎される、というテーマ(ならばアートであれば人を殺してもいいのかまで今後発展したい)、それは、目立って、新しくて、伝説的でなんぼ、というアートの本質的な部分、それを「見たい」とどこかで欲求する安全帯から観賞する側の、ある種下衆な欲望や好奇心との相互関係をいくつかの例をあげて、パフォーマンスに挿入している。
このパフォーマンスは、観客の教養レベルによって面白みが変わるように作られている。(ネタばれすると、ジョイス、サド、ウィトゲンシュタイン、ミシェル・ウェルベック、聖書やテレサ・ハッキョン・チャ引用など)

2は私にとってのエンターテイメント。新しさ。既存の一元的なフォーマットからの脱却の様を見たいという欲望。

3は言い換えると、
・想像力の喚起=想像させる余白の重要性
・没頭への拒否=共感への裏切り、踏み込めないもどかしさ、常に考えざるを得ない展開
・過度の形式性=形式を見せるということ。コンテンツの中身は強度を補完するものでしかない。(猟奇的殺人の告白の内容はほぼ重要でない)第一幕:俳句、第二幕:サッカー、第三幕:告白、これらを使って、言語ゲームと形式による形式を表現した。

4はお客さんの感想として、
・加工された映像の方がこのパフォーマンスの肝が見えるのではないか、という期待により映像をつい見続けてしまう。
・周りで起こっている演者やダンサーを個々に選択して観賞するより、スイッチングによる映像の方が全体を把握できるという観客の怠惰にも似て、結果映像を見続ける選択に至る。(映像と見る側の関係性を露呈する面白い結果となっている。)
・犯罪者の告白で、内容に対してむかつくと同時に少し理解してしまう自分もいた。

5はほぼそのままである。
観客のリテラシーによって、その場にいつづける人、立ち上がる人がいる。

■コンテンツ内容の選択(トークの時に話したことと、話そうとしたこと for 一般の方向け)
私は男性に対して強い愛情と激しい憎悪を持っている。
今回男性3人の出演するドラマに、女性目線で「愛と糾弾」という部分を反映させた。
男性社会に対するフェミニスト的な反発ではなく、その不思議な感情に重きを置いている。
男性と女性の生き方が違うー当然生物が違うので違うのだがー日本語を話している同じ人間なのに、共感していた瞬間一気にどこかで理解できなくなる瞬間がある、その当たり前な部分が私には非常にズレとして、昔から気になるところだった。そこは私たちが男性、女性だけではなく、他人と接する際、私たち人間が、人格を思い込みの想定でしかコミュニケーションが取れないということが、快楽殺人という犯罪の大部分を占める金銭目的ではない、ただひたすら一つの欲望のためだけに生きている、あるいは「欲望を処理しなければ彼らは生きて行けないという存在」、と接することと変わらない。

快楽殺人は99%男性である。女性も0ではないと思うが、例えば、独我論的に世界の中に自分がいるのではなく、自分のスタートから終わりが全世界であるという観点で生きる彼らを、私たちは社会から抹消すべきなのか、死刑にすべきなのか、「理解できない」その理由だけで、そういう行為にしか帰結できないのか、という問題提起でもある。

告白を通して、鑑賞者側が理解しようという過程が行われるのか、あるいは拒否するのか。それはすなわち彼らを抹殺するという、心の道徳的な問題に即座に突入する。

そういった狙いで、快楽殺人を使った。

人を殺してはならないという問いに対して私たちがどこまで正確に答えられるのか。現代社会では、「刑務所か死刑になってもいいのであれば」最終的には殺してもいいということになっている。
私たちが人と関わり合って生きていくには、きっとこの人は大方私の倫理観と同じであると信じながら、生きて行くしかない。犬猫を無意味に殺さないとか、そういうことを勝手に信じて話しているということ、赤色と言えばだいたい同じ色を想像し、それを指し示すこともでき、痛さも同じような場所に傷を作れば同じぐらい痛いであろうという部分を「なぜか」信じている。

ゲーム性というのは、規則を設け運用することであり、資本主義の金銭システム、スポーツや俳句の575といった形で私たちの社会に無数に存在する。しかし、そのゲームの規則を問われることなく、比較的無頓着に受け止めていることが、非常に興味深い。その点で、犯罪が、その規則性を踏みにじること、あるいはタブーを犯すという行為に少し近いと感じるのだ。

■Blue Fog:Bar Drama vol.3における映像表現について

仮に映像だけを見ていたら、テレビ放映初期のような生放送でドラマを撮っている状況を見ているような体験となる。(カメラのスイッチング等で操作する等)よく深夜とかでやっているような演劇を1カメで記録映像として撮るのではなく、視野外で起こるリアルと映像のギャップ、差異を体験することがこのアート・パフォーマンスに参加(観賞)する肝だと思う。Super Linear Showという概念は、リアルタイムで映像内に観客が取り込まれることと(撮影現場にいるかつ生放送の映像とリアルの展開が同時に起こる)、リニアの時間そのまま流れる時間をカットせずに編集はスイッチングだけというシングルチャンネル(1本化した1画面の映像)を見るという2段階がある。Super Linear Showは、映像芸術という側面と演劇という側面を相互に強く結びつけることで、世界の中の個人単位としての私たちの視野、視線という映像のフレームを用いて生きていることを感じさせる構造そのものであり、かつ、それをよりダイナミックに表現している。
一見、情報過多の空間であるが、全てのパーツが非常に形式的に作られているからこそ、これらが終始、形式へと集約し、ベケットのテレビのための作品、クワッド、夜と夢、幽霊トリオの構造を現代アートとしてより発展させたものとも言える。
このアートパフォーマンスは、青の空間で埋め尽くされている。Blue Backとは、Videoの具体的な意味のあるイメージを、モンタージュではなく、同時に即時的に見せるVideoの一つの技法だ。私はその具体的なイメージの羅列にこそ飛躍や破壊、現実を変容するという点で、アートの可能性を感じており、今後より効果的に挑戦して行く所存である。

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2014年03月02日

★ART REVIES★ Andy Warhol "Time, frame and those layers"

2014年2月1日より森美術館でアンディ・ウォホール展が開催されている。時期を合わせ、シアター・イメージフォーラムで映画回顧展が行われた。そちらで4作品を見たので、レビューしたい。

美術館でもいくつかのfilm作品が設置されていたが、まったくゆっくり見れる環境ではなく、ほとんどの客は「何が映っていたか」を知れば、充分満足して出て行ってしまうだろう(最近の美術館では珍しいぐらい見続けるのが困難な設置の仕方をしている。)実際、アンディ・ウォホールのfilmはタイトル以上でも以下でもない、ただその行為や出来事だけが延々流れ続ける、そういう類いの映像である。今回見た映像作品は、ウォホール初期の有名作、例えば「エンパイア」「キス」「イート」「スリープ」等は外したので、退屈な時間を消費しに行くつもりが、たいして退屈でなかった、というのが今回レビューを書く動機となった。

レビューを書く前に、アンディ・ウォホールの動画作品を何と言うべきかにつまづいた。実験映画、ただ映画、アート映画、映像、フィルム≒film、動画(何か変な感じ)・・・。一言で言うと、ノンフィクションに限りになく近い実験的なアート寄りのfilm映画というのが一番しっくりする。だが、あくまで私の推測であるが、彼はアートでも実験をでもなく、劇映画のフィールドで勝負しようとしていたと思う。ということで、film(実際にはfilmの価値観を超えているが)と呼ぶのが正しそうなので、このレビューでは以下filmで統一する。

私が見た作品の4つ(正確には5つ)は『ロンサム・カウボーイ』『フアニータ・カストロの生涯』『ブロウ・ジョブ+ヴィニール』『ヌード・レストラン』である。

初期有名作のような一発長撮りモノとしては『ブロウ・ジョブ』がこの中では当てはまる。美しい男の官能的な表情が固定カメラで映されている。16mmフィルムの何分かごとに訪れるフィルム切れも残らず使用し、フィルムの継ぎ目感やホワイトアウトするフィルムも捨てないのは、男の時間をできるだけ継続させて見せることにこだわっているからだ。鑑賞者は男の顔しかない映像を、退屈なほど長く感じる時間の中で、ラスト(あるいはクライマックス)がどの顔であるかのみに焦点を合わせるしかなくなる。言い換えると、一連の流れが編集されず、現実の時間のまま進行するため、一つの頂点を見るために見続けざるを得なく、そして見続けてみても、私たちは期待した瞬間を必ず見過ごすということだ。このfilmを見て衝撃だったのは私たちは期待する「瞬間」をその瞬間に捉えることが不可能だという事実である。ウォホールにおけるfilmの時間観念はこの事実に集約されている。

また、ウォホールの時間観念は、あるからくりを見せてくれる。鑑賞者は大きく変化しないfilmを見ながら、ハプニングを期待し続ける。その気が遠くなる程退屈で長い時間をかけて見る映画を途中で止めることは、そのハプニングが起こるかもしれないという期待という餌を諦めることだ。鑑賞者は目の前の餌をただ指をくわえて見続けるしかない。結果、飢えた私たちは黒くなった画面と同時にそもそも餌がなかったことに気づくのである。

ウォホールのfilmには固定カメラというもう一つ大きな特徴がある。通常、映画のカメラは人の流動する欲望に沿って動いてくれる。ウォホールのカメラは映している対象が移動してしまい、ずれてしまってもまったく修正しない。アンバラスで違和感のある状態のままキープしている。暴力的なまでに、カメラは人間の視線であることを拒否しているのだ。

『フアニータ・カストロの生涯』『ブロウ・ジョブ』『ヴィニール』はその固定カメラの傑作である。『フアニータ・カストロの生涯』はカストロファミリーとチェ・ゲバラが家族写真のように3列に配置され、ドラマを繰り広げる。もちろんウォホールは普通でない劇映画を試みていて、1.演出者が出演し、台詞を指示する、2.出演者はその指示に従い、即座に同じ台詞を言い、または行動する、3.カメラは出演者の正面に置かれているようだが、実際のこの映画で用いられたショットは斜め右からのショットである、よって、出演者の視線は、外れたままである、4.興奮した状況になると、英語がスペイン語に代わり、字幕も失われ、何を話しているかわからなくなる、5.出演者の性別は実際と異なる。

出演者はゆっくりとした大きな声で話すため、芝居がかっていて、演技力があるとは全く言えない。このような演技をさせるのは、観賞者に映画における演技がリアルさを追求するだけのものではなく、常に芝居を見ていることを認識させるための演出なのではないかと推測する。指示通りに動かされる出演者は演出者の指示に苛立ったり、フレームの外に行ってまた呼び戻されたりする。演出者の存在はメタ的に映画の権力構造を表現している。つじつまの合わない台詞や行動は劇映画上つながりがあるようで、全く互いにコミュニケートされておらず、かといってその断絶がカオスを作っているわけでもない微妙なバランスの作品である。アメリカとキューバの緊張関係や言語的変化(英語⇔スペイン語)、映画制作内部における構造、フレームの魔術、出演者の無力な様、それぞれが重層的に表現される映像ならではの多元的な楽しみ方ができるfilm作品である。

『ヴィニール』はアンソニー・バージェスが書いた『時計じかけのオレンジ』を元に作ったそうだ。映画の内容は、不良の主人公をSM風に矯正するシーンが延々と続くだけである。ここでも出演者は全員カメラのフレームの中に詰められている。斜め上にあるカメラは固定されたまま、一つの画面の中でいくつものシーンが同時進行している。『フアニータ』より、複雑に配置され、出演者に自由度があるため、好きな時に個々の出来事や細部を鑑賞者は選んで見ることができる。イーディ・セジウィックのように無遠慮に。

最後に『ロンサム・カウボーイ』と『ヌード・レストラン』だが、こちらは上で述べた時間観念や固定カメラとは全く違う手法なのだが、劇映画としてはとても興味深い作品である。とてもくだらないのに、学生映画みたいにならないこれまた形容しがたい不思議な映画である。ウォホールの映画は、ずば抜けた美男美女が主役であることが多いので、最悪、そのきらきらをウォホールが憧れたように見れてしまうのが、映画として成り立つ大きな要素なのかもしれない。この2つの映画の主役はヴィヴァとテイラー・ミードだろう。ヴィヴァのビッチぷりとテイラー・ミードのナルシスティックで滑稽な言動との対比が見物である。ナイス・オカマ、ナイス・ビッチ!
どちらの映画も撮影する側より出演者が勝るため、フレームは必ず見たい(見せたい)ものが中心となる。それは鑑賞者の欲望を満たすが、ウォホール特有の世界観が失われたように感じる。

ウォホールの初期filmは私たちの過ごす「時間」は基本的に全て退屈だとはっきり証言し、フレームの内と外の空間を使って世界の有限性を示し、鑑賞者の想像力をもコントロールしてしまう映像の強さを見せつけた。重層的な構造や観点をミニマルかつシャープに表現した類い稀な最高のアートである。
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2012年07月21日

★Sung Nam HAN artist's NEWS★ Live Beam ! vol.2 audio visual performance

Live Beam ! vol.2に映像ユニットdoSparksとして参加します。
ぜひお越し下さい〜。

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Live Beam ! vol.2
VIDEO x ART x ELECTRONIC MUSIC x NOISE x more !!!

映像の「ライブ演奏」が集結する、“Live Beam !” 第二弾。注目のアーティストによる最先端のエッジなライブが共演するイベント。ヴィジュアルアートとしても音楽としても楽しめる、映像ライブパフォーマンスの衝撃的体験!
"Live Beam !" is an event focused on video live performance. Here, in the "vol.2", gather various performances by cutting-edge artists. Shocking experience of visual and sound! Do not miss it!!!

date: 7.28, 2012 (Sat)
open: 20:00-
charge: 2500 yen w/ 1 drink

place: M EVENT SPACE & BAR
東京都恵比寿西1-33-18 コート代官山B1
COAT-DAIKANYAMA B1, 1-33-18 Ebisu-nishi, Shibuya-ku, Tokyo
www.m-event-bar.com/
TEL: 03-6416-1739
MAIL: contact@m-event-bar.com


< TIME TABLE >
- 映像ライヴパフォーマンス / VIDEO LIVE PERFORMANCES -
20:30- "doSparks" as 西山 修平 & 韓 成南 / Shuhei Nishiyama & Sung Nam Han
「テレ・パーミュテーション - 現実と想像の In&Out / Tele-permutation - In & Out of Reality
and Imagination」

21:30- 河合 政之 with 浜崎 亮太 / Masayuki Kawai with Ryota Hamasaki
「ヴィデオ・フィードバック・ライヴ・パフォーマンス / Video Feedback Live Performance」

23:00- 瀧 健太郎 & 大江直哉 / Kentaro Taki & Naoya Ooe
「WELTSPIEL- 世界の戯れ 2: 電子イメージによる時空間のアッサンブラージュ / The Flirting World 2: Time-space Assemblage by Electronic Image」

- VJ time -
24:00- 田中 廣太郎 / Kotaro Tanaka , 小久保 晴太郎 / Seitaro Kokubo

DJs:HORS IS NOT MOBILESET / XU / Julien Sato

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< artists >
西山 修平 / Shuhei Nishiyama
前衛・実験映画に影響を受けて映像制作を始める。国内外にて作品多数発表。ヴィデオ構造についての実践的解体を通じて世界を理解し、変革する可能性を提示する。
He started film making under the influence of avant-garde and experimental cinema, and has shown works internationally. He seeks the way to understand the world and the radical potential to change it by video.

韓 成南 / Sung Nam Han
言語・色・音・映像の記号論を踏襲し、映像作品やアート作品を制作。最近では人間/性愛/宗教といったコードに対して暴発的なエフェクトで彩った作品を発表している。
She makes video and art works with the semiological approach to language, color, sound and image. She recently makes works about the social code of human / sex / religion, using abrupt visual effect.

河合 政之 / Masayuki Kawai
哲学的かつ先鋭的な映像作品を制作、世界30ヶ国以上で上映。受賞多数。「Visual Philosophy」 というコンセプトで新たなメディア文化を立ち上げようと、さまざまなプロジェクトを国際的に展開。
He makes philosophical and radical video works, which were shown in more than 30 countries. He is seeking the cultural possibility of media under the theme of "Visual Philosophy", and developing various projects internationally.
www.ref-lab.com

浜崎 亮太 / Ryota Hamasaki
現代アートを批判的に乗り越える芸術の可能性と役割を思索し、ヴィデオアーティストとして活動する。
He has been working as a video artist, speculating about the possibility and roles of art which critically goes beyond the contemporary art.

瀧 健太郎 / Kentaro Taki
ヴィデオの立体コラージュ、インスタレーション、パフォーマンスなど様々な表現を行う。都市風景や身体のイメージを切り刻み、映像の意味を無化し、構造を露わにする。
His expression varies from three dimensional collage to installation and performance. The images of urbanscapes and bodies are cut into pieces to turn the meaning of the images into nothing and finally its structure will be disclosed.
www.netlaputa.ne.jp/~takiken/

大江 直哉 / Naoya Ooe
メディア論を中心にした映像作品を制作し、国内外で上映・受賞。「Rhizome TV」「design art unit NOR」「MiHaRi」など多岐に渡って映像制作活動を展開している。
He makes video works from the view point of media study, which were shown internationally. He also acts as a member of various art projects such as "Rhizome TV", "design art unit NOR" and "MiHaRi".


田中 廣太郎 / Kotaro Tanaka
イメージフォーラムフェスティバル、ロッテルダム国際映画祭、ヨーロッパ・メディアアート・フェスティバルなど国内外の映画祭で上映され、受賞している。
His works are exhibited in the country and overseas such as Image Forum Festival, International Film Festival Rotterdam and European Media Art Festival.
www.kotarotanaka.net

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2012年01月23日

★DIARY★ageHaとJUNO REACTOR

金曜、友人と大バコ「ageHa」に行くことになった。
当日、別の友人達の飲み会に行っていたら、新木場までの終電に間に合わず、
渋谷から直通アゲハ行き無料バスに乗る。
バスの中で接近した東京タワーを見つつ、ラジオのテクノに耳を傾ける。
観光バスとテクノの不思議な出会い。

JUNO REACTORがメイン。
ちょうど彼らが始まるタイミングで3階踊り場の手すり前に収まる。
友達とは会えず一人小踊り。
結論、私の趣味ではないけど、なんとなく「今」っぽい音楽な印象。
VJの映像はゴス。
音楽はヴィジュアル系×テクノ×民族音楽(フロム日本、ジャマイカ、インド)
インド女性歌手のわななき×ラスタなMC×生ギターとドラムがライブを彩る。
最後には和太鼓を並べ、演奏者が参加。
会場は超満員で、大盛況。拍手喝采、万々歳。

楽しむ人々を横目に、様々な民族音楽を音源として使うことに疑問を持った。
民族の背景部分にこだわらず、エキゾチズムとして短絡的に使うことと、
歴史的背景を含めて、厳かに使うこと、両者はどれくらい隔たりがあるのか。
そもそも音楽について、その問いは必要なのだろうか。
MIXの精度が良ければ、マスの反応が良ければそれでいいのだろうか。

私はJUNO REACTORの音楽が没思想的に使用されているように感じる。
インド女性の手持ち無沙汰な動き方、MCの単純さ、和太鼓の音が激しい動きに反して小さいことや
ドラムの音と打ち込みの音の聞き漏れそうな絡み方等々、
随所に各パートに対する敬意のないライブであった。
それらがなんとなく今っぽい、という結論に至った理由である。
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2012年01月13日

★ART REVIES★ リヨン・ビエンナーレ 2011

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去年パリ滞在中の9月23日、フランス・リヨンで開催されたThe 11th Biennale de Lyonへ足を運んだ。

アイルランドのイースター蜂起について詠ったイエーツの詩、「イースター、1916」の有名な一文である
'A Terrible Beauty Is Born'を主題として掲げている。

今回のゲスト・キュレーターであるヴィクトリア・ノーソーンのステイトメントを要約すると、下記のようになるだろう。

...…イエーツの詩は、一見、大義のために命を捧げた知人を称賛しているかのようだが、深く読み解くと、
詩は肯定から疑問、最後には否定へと向かっている。
この詩の中で、恐ろしい美が生まれている、という一文に、明白な、
相反するものが共存している様が見受けられる。
この矛盾した構造が興味深い。美は常に恐れから始まるのか。あるいは、美は恐れとは異なるものなのか。

また、このビエンナーレでは、今日におけるアートの混乱した状況に対して取り組み、
アートとジャーナリズムを、アートとコミュニケーションを区別しようとしている。
アーティストは政策的課題を超え、政治に関して「何か」を制定することに興味はない。
今回の第11回リヨン・ビエンナーレは南米とリヨンで構想され、
アーティストは個人としてではなく地域の代表として選定されている......

行き詰まった現状のアートシーンから脱却するためには、
アートワークが様々なジャンルの道具と化しているため、
それらから「区別」することから始めようと主張している。
アート×他ジャンルという牧歌的な歩み寄りの時代は去った。
否定的な結果を予想し多少悲観しつつも、それでも今、アートで何を成すことができるか。
かろうじて存在する希望的観測と戯れながら問う行為を、
イエーツが感じた時代の変動につきまとうある種の不安感に重ねることができるのか、
その点で詩を引用したように思う。
上記の主題に基づいて、いったいどのような南米のアートがセレクションされているか興味深い。

第11回リヨン・ビエンナーレは4つの会場で行われた。私が実際訪れた順に、主な作品を紹介する。

1つ目「ブルキアン財団」街の中心、ベルクール広場に面した建物。

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庭園にはリチャード・バックミンスター・フラーの作品。材料はこの庭に置かれていた資材から成る。
材質の異なる半球のオブジェは素材の持つ特性と真逆の印象を与える。
木のドームは頑丈さを表す反面、鉄のドームは弱々しい。
建物の中には建築設計図が並べられている。今日見られるドーム状の建物は彼が発明したそうだ。

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ニコラス・パリス「Utopia en espera o Dagramas de un terriorio」は価値感が一新されていくプロセスを
身の回りのものを使って表現している。

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L'Humanité by Fernando Bryce

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Hang Katswa Madi2 (Even if I Bleed 2) by Kemang Wa Lehulere

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Plan by Luciana Lamothe

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「魔女」by シルド・メイレレス

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10:51 by Jorge Macchi

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Series of drawings by Elly Strik

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Acoustic Drawings by Milan Grygar

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Xenoglossia by The Center For Historical Reenactments

2つ目、リヨン現代美術館。
ほぼ9割方、アフリカやラテン・アメリカ出身の作家のアートワークで構成されている。
「黒」を基調にした作品が多かった。
各作品の印象が散在してしまう危険性を回避するためかのように、
キュレーターが色をひとまとめにしたかのようだ。
個々の作品の技術あるいは完成度の低さを隠すかのようでもある。
光を吸収する黒は、時に洗練した雰囲気にしたり、政治的背景を持つ個人の記憶等を
多少シリアスにするためであったりするが、
この展示においては黒が一概にダークな面を示す色ではなかった。
また、モノトーンが必ずしも視覚的強度を深めるわけでもなく、
アフリカやラテン・アメリカ社会が持っていた前時代的な暴力性を
あいまいな調子で作品に滞わせているだけであった。

展示室に繁殖している黒い糸の作品はシルド・メイレレスの「魔女」である。
この設置に関してその他のアーティストは了承したのだろうか。
黒い糸に満たされた空間で見る彫刻や絵画は作品の質いかんに関わらず、ずいぶん違って見えてしまう。
この糸がない方が栄える作品も中にはあったので残念である。
作家の主旨はクリアされているが。

「静かなサイレン」 by エドゥアルド・バスアルド from Sung Nam HAN on Vimeo.




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Puxador[Pilares] by Laura Lima

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Lucie's Fur: The Prelude by Tracey Rose

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The Day Trip Project by Julien Discrit

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Perikhorein Knót by Erick Beltrán

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Le fil rouge de l'histoire... by Roberto Jacoby

3つ目はスゥクリエールという製糖工場跡で展示を見る。
エドゥアルド・バスアルドの「静かなサイレン」が完成度が高かった。
月のクレーターのような地面にどす黒い水がわきだして、池になるまで地面ギリギリまで水が満たされていく。
その後、元に戻るように水が引いて行く。それが延々と繰り返される。
この作品に心ひかれるのは、震災の映像を来る日も見続けていたからであろうか。

延々といえば、このパフォーマーも全裸でひたすらゴムをひっぱっていた。
1時間に5分の休憩以外は朝から晩までひたすらゴムをひっぱっているそうだ。
静止しているアートワークに混じって、装置なり、身体なり、動きを持ったものは目立つ。

映像は計10作品、プロジェクションされていた。
近年アートに関するどのイベントにおいても、映像作品はじっくり見られる傾向にある。
映像はワンコンセプトタイプが最も多く、日常空間に異質な象徴が画面を占領することで、
日常あるいは自然の場面が畸形化するといった類いが主流だ。

また、この展覧会以外でも流行となっているのだが、
世界の諸々の「こと」や「現象」を個人や小集団の観点からまとめ上げ、
ブレインストーミングのような単語と図の羅列によって説明しようとするアートワークが
適宜、配置されていた。

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Gala Chicken and Gala Coop by Laura Lima

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Marienbad by Jorge Macchi

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最後「T.A.S.E 工場」について。
広大な廃墟のような工場にある作品は空間の大きさに比べ、少なめであった。
奥にある骨組みだけになってしまった建物も展示空間として使用されていたら、より面白いのにと思った。

ジョージ・マッチによる「マリエンバート」は典型的なブルジョワの庭園を廃墟の中に作った作品。
東側からと西側から見るのとでは、ずいぶん違っていた。

リヨン・ビエンナーレに行き、日本で紹介されないような作家たちを一同に見ることができて良かった。
タグ:ART REVIES
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2011年11月02日

★ART REVIES★ オーケストラ・プロジェクト2011《オーケストラの測鉛〜未来へのアナログ遺産〜》

オーケストラ・プロジェクト2011《オーケストラの測鉛〜未来へのアナログ遺産〜》に足を運んだ。測鉛という言葉も知らなければ、アナログ遺産という自虐的なタイトルも含め、好奇心がそそられる。4名の現代作曲家の新作を東京交響楽団が演奏する夕べである。

個々の作品の印象を述べるのではなく、私の久々のクラシック経験を述べようと思う。
初めの2作を1Fで聴き、後半2作を2Fから見た。1Fで聴いてるときは、音の重量感もさることながら、演奏がしばし止んだ時の残響と言う程強くない音の消え行く様子、空間を把握することはいわゆる脳内における音の留まれることを許されないゆるい停滞、音を聴いている、かろうじて聴けているその曖昧な無くなる「音」を聴く経験をじっくり吟味することができた。
2Fで見た2作品は視覚情報が多すぎて、どれだけ目を凝らしても余り有る状況であった。パリで第一級とされるオペラを見てもバレエを見ても「見えない」主人公であるにもかかわらず、あまりに主張のない主人公である楽団の舞台裏を、オペラシティのコンサートホールでは類い稀な位置で見れるということは、嬉しい発見であった。あの位置でクラシックが見れるなら、視覚的においても演劇や映画にも勝てるのではないだろうか、というほど、くる人にはくる座席なのである。(特にロランバルト的な執拗な視線を持てる者にとって。)1Fではせいぜいスーパーエリートバイオリン集団が見れるだけで後方の演奏者はほとんど見れない。いうならば、DJの前で踊るって感じで、え、さっきの音なんの音なの?と思っても検証できない。その音は演奏会に来られるような方は知ってて当然の音かもしれない。まあ、見ようが見まいが演奏を聴くという点ではどうでもいいとも言える。2Fに移ると、後方の方々のチャーミングというか、ちょいダレてる感じで、演奏上少なくともバッハとかにはない演奏をした後の苦笑いも含め、鑑賞者の想像を十二分に満足させるような演奏をしているのである。まるで演奏は演技であるかのように。クラシックの奏でる様子があまりに記号的な展開になっており、記号と対象の関係性の示唆にも富んでいる。今回、私はクラシック素人として、解読できない鑑賞者の目線を経験し、多大な感銘を受けた。80名近い人間の真剣な表情を心置きなく見れる機会を想像してほしい。音を聴かせる演奏会が視覚芸術へと転じる素晴らしい転移なのだ。
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2011年10月30日

★Sung Nam HAN artist's NEWS★ 国際シンポジウム in 福岡 [西南学院大学]「音と映像の現在形」参加

「音と映像の現在形」シンポジウムにパネラーとして参加します。
福岡にいらしたら、ぜひお越し下さい。

シンポジウム:2011年11月7日(月)13:00〜15:00
映像上駅:2011年11月6日(日)12:00〜17:00
         11月7日(月)10:00〜16:00
※3つのブースでの連続上映

国際シンポジウム「音と映像の現在形」にパネラーとして参加します。記号論的な映像分析、映像における多言語(日/韓/英)の可能性について簡単に講演をし、中村滋延氏(作曲家・メディアアーティスト)、パップ・ジリア氏(アニメーション研究)と共に討議を行います。司会は栗原詩子氏(音楽学/アニメーション研究)です。シンポジウム以外の時間には映像ブースにて作品上映があります。


音と映像の現在形.jpg
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2011年10月27日

★Sung Nam HAN artist's NEWS★Flash back/forward




逗子フィルム・フェスティバル2011の〜1分映像リレーで映画を作ろう〜「映像のタイムカプセル」に協力しました。
12月10、11日に上映されるそうです。

作品内容:「Flash back/forward」は、少し前の確実な過去が不確かになっていく「記憶」をテーマにしている。
なぜパリなのかというと、最近1ヶ月ほどパリに滞在したからだ。
各ショットは、滞在時の映像日記から抜粋している。
日本に戻り、書店に立ち寄る度に「パリ」を特集する雑誌、「パリ」に関する本や写真集がたくさん目についた。
「パリ」という街に幻想を抱かせようとする媒体と幻想を抱き続けたがる人々の存在を強く感じた。
それらのイメージは実際のパリと随分隔たっているように思う。
diversityと景観に対してのみ保とうとする美意識の破綻する一歩手前の緊張関係、それが今のパリである。
そんなパリに愛をこめて。
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2011年10月16日

★DIARY★'Moving Snaps' 16 Sep 2011 -サルトルモテル/Sartre is attractive even now.-

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★DIARY★'Moving Snaps' 15 Sep 2011 -Centre National d'Art et de Culture Georges Pompidou-

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★DIARY★'Moving Snaps' 14 Sep 2011 -なぜあなたは私を見ていない?/Pourquoi ne me regardes-tu pas?-

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★DIARY★'Moving Snaps' 13 Sep 2011 -マゾヒズム/Masochism-

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★DIARY★Moving Snaps' 12 Sep 2011 -楽レット/Raclette-

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★DIARY★'Moving Snaps' 11 Sep 2011 -Byebye-

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★DIARY★'Moving Snaps' 10 Sep 2011 -INDONESIAN meets SAATCHI-

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★DIARY★'Moving Snaps' 9 Sep 2011 -テート・モダン/Tate Modern-

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2011年09月16日

★DIARY★'Moving Snaps' 8 Sep 2011 -乗り遅れ/missed-

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★DIARY★'Moving Snaps' 7 Sep 2011 -ドーヴィル/Deauville-

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2011年09月15日

★DIARY★'Moving Snaps' 6 Sep 2011 -大胯びらき/Le Grand Écart-

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★DIARY★'Moving Snaps' 5_2 Sep 2011 -モンマルトル/Montmartre-

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